妙政寺について

妙政寺について

  • 日蓮宗の備後地方における宗門伝導の拠点として

     備後福山二代藩主 水野美作守勝俊公菩提寺の当山は、総本山身延山久遠寺第十二世円教院日意聖人開山京都本山妙伝寺の流れです。当山は天正年中(一五七三~)三州刈谷で水野和泉守忠重(勝成公の父)の筆頭家老、上田無甚斉氏によって創建された寺です。後に大和郡山へ三州岡崎より水野藩と共に移建。寛永五年(一六二八)福山寺町の寿量山寂圓寺「元和年中(一六一五~)浄土眞宗、現、光善寺に合併」前地に移建しました。そして寛文六年(一六六六)九月には水野家家老の上田玄藩氏(無甚斉氏の孫)が、吉津の弘宗寺(現、東町臨済宗)を取除き、その跡地を含め規模を拡張して妙政寺を移転再興、現代に発展させる基礎固めをしました。
     当地における日蓮宗門の伝導弘布は、各城主や有力武家の外護のもと、庶民階層の間にも早くから浸透。熱烈な帰依者によって支えられたこの地域の日蓮宗門は、「備前法華」に相対する「備後法華」としてその名があり、宗門伝導の一大拠点となっていました。特に備後三山中本寺格の水呑町妙顕寺並びに熊野町常国寺を中心としてその盛行には、かなり熱心なものがありました。

  • 江戸幕府と備後福山藩の仏教保護の元、隆盛を極める

     江戸幕府の仏教保護政策に呼応した日蓮宗門の偉大な名僧・学僧の輩出は、多くの帰依信奉者を続出させ、宗門寺院の隆盛につながりましたが、当山でも、城主水野勝俊公が大檀那となり、絶大なる外護をしてその繁栄を一段と高めました。
     その理由は、慶安五年(一六五二)勝俊の息女万寿姫の病気の全快を念じて当山に祈祷を命じたことにはじまり、雨祈祷などにより、その霊験にこたえて自ら改宗して大信者となりました。現在も当時創建された大本堂、新築なった近代的設備を誇る大庫裡、旧来の山門、仁王門、小堂(隠居所)、観音堂、水野家位牌堂、鐘楼堂、改築された位牌堂(釈迦堂)、大庭園などが完備され、その偉容には圧倒されます。まさに戦災後の備後福山市における最大級の備後三山中本寺格寺院として、その盛況を極めています。

    ※当山第二十六世海淳聖人は、達師法縁縁頭本山頂妙寺第七十一世。
    ※現薫海静上人は、本山参与就任。

  •  水野重郎三衛門氏並びに宮本武蔵氏、平井氏寄進の六角型大石灯籠一対や、鐘楼にみる大梵鐘は福山にとって由緒深いものです。殊にこの釣鐘は福山の城郭築造に土木工事の名手と仰がれた神谷治郎長次氏が、信解院殿理圓日證大居士(勝俊公)の追善のため、明暦二年(一六五六)鋳造したもので、第二次世界大戦中も特にその存置命令によって現地に保存されたものです。
     これらに加えて、宗門の宗宝、准宗宝並びに日蓮大聖人御真筆など寺宝として数百点の優品が伝存しています。

    ※現在、福山城博物館にすべてあずけてあります。

  • 妙政寺案内図

    妙政寺には、本堂、書院、山門、仁王門、小堂(旧隠居所)、観音堂、水野位牌堂、鐘楼堂、位牌堂(釈迦堂)庭園などが完備されています。

  • 水野勝俊公追善の大梵鐘

    鐘楼堂にかかる大梵鐘は福山市にとって由緒深い鐘です。第二次世界大戦中に存置命令によって現代まで保存されたその大梵鐘は、福山城郭築造に名手と仰がれた施主が、水野勝俊追善のために鋳造した鐘であると言われています。

  • 宮本武蔵氏ゆかりの石灯籠一対

    また本堂前には、宮本武蔵氏とゆかりの深い、石灯籠一対があります。福山に大変由緒深い灯籠です。

  • 妙政寺墓地

    約二千坪の墓地が境内にあります。墓地は新檀家ご希望の方に限り分譲中です。

備後福山二代藩主 水野勝俊公

備後福山二代藩主 水野勝俊公

  • 水野勝俊公肖像画

    初代藩主 水野勝成公嫡男として備中成羽に誕生

     水野美作守勝俊公は、初代藩主勝成公の嫡男です。慶長三年(一五九八)七月二五日備中成羽に誕生。彼は慶長十三年(一六〇八)二代将軍秀忠公に仕え美作守に任ぜられました。大阪冬・夏の両陣では父勝成とともに戦功をたてています。
     水野勝成公は、元和五年(一六一九)備後に移封され、近世都市福山の城下町の形成に尽力した初代藩主です。勝成公が福山に入城した事情から、二代勝俊公は海南を鎮護する任にあたり鞆の津に任しました。勝俊公が民衆から「鞆殿」と言われた所以もここにあります。
     勝俊公は寛永五年(一六二八)の熊本城の請取りも父とともに下向し、また寛永十六年(一六三九)二月、島原の乱にも父に従って参戦、子息勝貞と共に島原城本丸の先登をなしたことで有名です。この年から家督を襲ぎ、備後福山藩の二代藩主となりました。

  • 水野美作守勝俊公御廟所

    水野勝俊公菩提寺として

     水野勝俊公は、承応四年(一六五五)二月二一日江戸桜田邸で五十八歳の天寿を終え、遺骨はその後妙政寺に納められました。この殉死者七名のうち三宅半助氏、河上一郎右衛門氏、馬場長右衛門氏の三名は江戸で、上田七兵衛氏、田中十郎右衛門、横山惣右衛門、西山半左衛門氏の四名は当福山の地で殉死しており、各霊墓もまた当山に祀られています。
     勝俊公の正室は九鬼長門守藤原守隆公の娘であり、寛文二年(一六六二)死去江戸深川霊岸寺に葬られています。そのほか、水野藩筆頭家老上田氏代々、阿部公正室(佐原氏子)、水野、阿部藩両関係者、儒臣として伊藤仁斉氏の二子、東涯の異母弟の伊藤梅宇氏の室佐野氏の墓や、福山藩学弘道館(誠之館の前身)で教授職にあった儒家衣川氏、および阿部家筆頭家老佐原氏代々の霊墓など著名人の墓石が多くあります。

永代供養墓・納骨堂

永代供養墓・納骨堂

  • 永代供養墓とは

    備後妙政寺の永代供養墓納骨堂は安心の宗派を問わない永代供養墓です。清掃や除草の管理も不要で天候によらずにいつでもお参りができます。福山城を望む静かな高台の歴史ある当寺で永代に渡るご供養をお約束します。ゆっくりと安らかにお眠りいただけます。生前のご予約も承っておりますので、心おきなく日々をお過ごしいただけます。

  • 永代供養納骨堂墓の特徴

    永代供養納骨堂は清潔な総石造り。卒塔婆供養も出来ます。納骨堂には専用の個別棚にお骨壷をご安置して供養する個別壇と、遺骨を骨壷から出し墓所内に埋葬する合祀型の合同壇があります。目の前には福山城が広がります。心やすらぐ静かな高台でゆっくりとお眠りいただけます。
    また、永代供養お位牌堂(釈迦堂)では皆様の大切な方のお位牌をお祀りいたします。
    妙政寺の永代供養墓納骨堂では、毎日のお経と仏飯供養を行なっています。お盆お彼岸の供養もいたしております。

妙政寺案内

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